土居 由理子 / YURIKO DOI

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アメリカにおける狂言の発展 1

野村万作先生との対談 / Dialogue with Kyogen Head Master Mansaku Nomura
2019年3月25日江戸川橋、よいや舞台にて/At Yoiya-butai, Edogawabashi, Tokyo, March 25, 2019


1) アメリカで最初に狂言を教え、また公演をしたきっかけ。
早稲田大学の河竹登志夫先生が東京でワシントン大学、日本語科教授であったリチャード・マッキノン先生を紹介してくれ、その後マッキノン先生の招待と、父野村万蔵の意向で、1963年ワシントン大学へ行き、公演後初めて狂言のクラスを持った。但し、大学へ着いたものの、マッキノン先生は、何の準備もしておらず、狂言のクラスのセットアップからクラスを取る学生たちの嵌入など自分でしなくてはならなかった。2-3回教えたクラスでは、狂言の動きと「清水」の言葉を教えた。この時は、マッキノン先生の援助がほとんど得られなかったので、ブロークンの英語で、四苦八苦して教えなくてはならず、こんなに苦労したことはなかった。

2) マッキノン先生側の積極的な招待なのか、それとも先生側のご希望だったのか。
野村万蔵の意向。1963年の苦労した経験を生かして、1968年の2月3日から3月5日まで、約1ケ月ニューヨークのヒリヤ和子エージェントのツアー企画の下で、アメリカ、カナダのトロントなどを巡演した。アメリカでは、ニューヨーク、シカゴ、ポートランド、シアトル、サンフランシスコ、ミシガン、ダラスなどを回った。

3) 狂言をはじめてみる観客の反応。
日本語を教えている女子大学やコーネル大学などでの観客の反応は良かった。またキャロル・モーリーがいたウィズリー大学もよかった。一方アメリカ南部に行ったときは、日本の文化がまだ十分紹介されていなかったのか、ほとんど反応がなかった。又メキシコなども、大きな劇場で観客もかなり入っていたが、観客はあまり乗ってこなかった。

4) 度重なるアメリカ公演の中で、特に印象に残っている公演?
とても印象に残っているのは、ポートランドのリード大学で公演した時、足を踏んで喜んでくれた。体に表して喜んでくれることに驚きを覚えて、感動した。
又1968年のシアトルで催された公演。シアトルのスペース・ニードルという塔の博覧会のわきの劇場で、「棒縛り」、「梟山伏、」「三番叟」を上演し、マッキノン先生の解説だったが、彼の解説は、あまりにも「えー」、「えー」という間延びがはいって不評だった。又囃子なしで、テープを使って公演したが、途中で停電になり、しばらく後見座で退避し、電気がつくと又演じるというハプニングもあった。その時、落ち着いて後見座に退避し、間を待った態度を地元紙が、称賛してくれた。又舞台脇に垂れ幕を立ててプログラムを進行した、字幕のない時代。

5) 野村万蔵3周忌特別公演の件
6世野村万蔵が1978年5月6日に亡くなり、アメリカが好きだった野村万蔵3周忌をシアトル、サンフランシスコ、ハワイで催すことになった。能の野村四郎を含む野村万之丞、万作、五郎兄弟四人出演と母堂梅子の参加。
サンフランシスコ公演は、1980年7月16日から19日まで、スタンフォード大学ディンケルスピール オーデイトリアムとサンフランシスコ、ハーブスト劇場で3回公演。「フクロウ山伏」、能「善鳥」、「棒縛り」、「二人袴」上演。
土居由理子が初めて、シアター・オブ・ユウゲンとして主催した公演だった。この時、土居は、ワシントン大学、ハワイ大学での公演の連絡なども担当。
これを機に3年後には、同じ野村四郎先生も一緒に、ハーブスト劇場で公演。シアター・オブ・ユウゲンの劇団員が狂言「くさびら」のいろいろなタケノコの役を演じ、「道成寺」の一部も演じた。

6) Theatre of Yugen のために作った稽古にはいる前のウォームアップの練習曲の歌と動きを覚えていらっしやいますか。
ニューヨークでマーサグレハムのリハーサルを見学に行って、その時リハーサルの前にやる練習曲とダンスを見て、これは面白いと思って1983年にTheatre of Yugenのために作りました。あれは、小舞「かっこ」を中心に三番叟の動きも入れて発声と舞・動きの基礎の練習として作りました。いまだにその練習曲をなさっているとは、とても嬉しいです。

7) 1985年7月12日から31日まで、東北の岩手県平泉にある中尊寺で催された日米合同狂言ワークショップを覚えていらっしゃいますか。あの時の役者ノースを覚えていらっしゃいますか。ブレンダ青木も。
よく覚えています。先日ブレンダのサンフランシスコクロニカルの記事もいただきましたが、英語なので、まだ読んでいませんが。

ノースもヘレンモーゲンラスももう亡くなりました。
そうですか。とても懐かしいです。

8) 和泉元秀(三宅やすゆき)の娘が、日本で唯一のプロの女性狂言師といわれていますが、Facebookを通して狂言を教えていることをどう思われますか。
確かに彼女は、プロの狂言師として協会で認められていますが、父親の和泉元秀が、家元なので、協会の認証を受けるために必要な2つのうち一つは、父親、もう一つは父親の弟子が推薦して協会の認証を得たのですが、実際には協会員の90%は反対でした。三宅右近が当然和泉流を継続すると思っていましたので、今でも応援しています。息子は、問題があって、今協会から放逐され、娘二人は、海外で公演しているようですが、国内では、していないと思います。

9) お孫さんのなつ葉ちゃんが「靭ざる」の猿役で活躍していますが、なつ葉ちゃんがその後も女狂言師として才能があれば、狂言を続けて教えますか。
そのころには、僕はいないから、分りません。

10) 2003年のサンフランシスコの公演で、「川上」を公演し、観客からスタンデイングオーベーションの喝采を受けましたが、これは狂言が広まってきたあかしだと思いますか。
アメリカ人にも、狂言が単に笑わせる劇だけではなく、人間喜劇として社会に浸透していく力を持った劇だということがわかってもらえた、と思います。又字幕がついて、単なるエキゾテイズムではなく、その内容が十分わかってもらえたからだと思います。「川上」は、ニューヨークでも、ミラノでも上演しましたが、
ミラノの公演が終わった後、老夫婦の旦那さんが、「川上」のようにワイフに手を差し伸べて帰っていく姿を見た、と観客の一人に言われました。「月見座頭」もよく上演しています。

11) アメリカでの狂言の発展に寄与した人に、先生の他にどなたがいらっしゃいますか。
私はあまり知りませんが、亡くなったニューヨークのジャパンソサエテイーのビアテイー白田ゴードン、キャロル・モーリー、ボストンのピーター・グリーリーさんなどではないでしょうか。

12) 1974年1月ハワイ大学での授業。坂場順子さんとの出会い。講義の印象、学生の反応などを教えてください。
週に3回のクラスでしたが、それでは足りないといって毎日教えました。そのクラスを取っていたのが、坂場順子さんです。小舞「花の袖」、「うさぎ」、狂言「附子」、「ひげ櫓」を教え、最後にケネデイー・センターで上演しました。クラスにデービッド古本さんもいました。レクチャー・デモンストレーションでは、狂言の様々な型、「花子」の曲の一部、「釣り狐」に入った時は途中で省略しました。
「能は、狂言に含まれる」をレクチャーして、6世万蔵先生、お弟子の方々の東京外語大学の西田実先生、フランス語科の田島宏先生等もお見えになり、地元の商工会議所で野村武司が「井杭」を万蔵先生と共演しました。

13) 野村家の系譜を教えてください。
一世野村万蔵(1722-1790)は加賀(今の石川県の南部)の前田藩お抱えの狂言師だったが、5世万蔵、萬斎の時東京へ進出した。父6世万蔵(1898-1978)と弟(叔父)の三宅藤九郎が戦後の能楽堂に狂言を普及させました。


  以上