土居 由理子 / YURIKO DOI

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土居由理子略歴
シアター・オブ・ユウゲン創立者、舞台演出家、英語狂言&狂言演者, ヨットウーマン

Yuriko Doi SFSU-s



昭和16年(1941年)東京に生まれ、宝生流の人間国宝故高橋進の弟子の大叔母土居由季の関係で幼少のころから能楽に親しむ。
早稲田大学演劇学士、演劇修士を取得後
1967年に渡米。ベトナム反戦運動真っただ中のカリフォルニア大学バークレ校演劇科修士課程に一年間在籍。其の後学費援助を取得し、サンフランシスコ州立大学演劇修士課程に転校し、演出で修士取得。
1978年サンフランシスコで劇団シアター・オブ・ユウゲンを創立。以来23年の間劇団の芸術監督、制作を努めた。
和泉流狂言を人間国宝野村万作、石田幸雄、観世流能を人間国宝野村四郎に師事する。カレッジ ウーメンズ アソシエーション日本の渡航支援、アメリカ合衆国芸術基金(NEA,フォーク・アート・フェローシップ、カリフォルニア・アーティスト・イン・ザ・レジデンシー、カリフォルニア伝統芸術連合(ACTA)等の助成金取得。さらにサンフランシスコ演劇評論家連盟賞をV. ヒューストン作「心」で演出大賞、またミュージカル「太平洋序曲」の振付に対して振付賞を授与された。また長年の日米交友と文化交換に寄与したシアター・オブ・ユウゲンの代表として日本国外務大臣賞を授与され、またサンフランシスコ日米会の文化フェイム・オブ・ホールに選ばれた。

シアター・オブ・ユウゲン創立後、英語狂言を各地の教育施設や文化団体に招かれ大学、小中高等学校、劇場、レストランなどでも公演するとともに、1981年にはアメリカ人の劇作家の書いた新作能「The Embracing Trees」を狂言と組みあわせて上演し、その後多くのギリシャ悲劇を含む欧米戯曲とのヒュージョン劇公演活動を始めた。 1982年1月から2月にかけて、西海岸日本総領事館シアトル、ポートランド、サンフランシスコ、ロスアンジェルスの後援で、シアトルの日本館、ポートランドのポートランド美術館バーグ スワン講堂、サンフランシスコのファインアート美術館小劇場、ロスアンジェルスのポモナ州立大学多目的劇場で初めての英語狂言でのシアターオブユウゲンの西海岸ツアーを実施。各地超満員の盛況だった。オレゴンジャーナル紙は、1982130日の見出しに、“Noh joke: Kyogen‘s funny”と記載し、日本でも我々と共通する笑いがあることを見つけた、と英語狂言での意義を絶賛。特に当時は、日本企業の進出が激しく、日本人は、笑いも解せず、ただ蟻のように働いて居る人種だ、と思われがちであったから、この記者は、安堵したようだ。 この大成功のツアーの成果で、1984年10月から11月にかけて、2回目の西海岸ツーアーを西海岸日本総領事館後援で、カリフォルニア大学サンタクルース校、シアトル大学、オレゴン ジャパンソサエテイー、そしてサンディエゴ州立大学東洋・古典語・文学科の大劇場で催した。その他、ロスアンジェルスオリンピックでの公演をはじめ、UCLAでの1週間にわたる公演と演技指導、アリゾナ州などへのツアーなどを経てシアター・オブ・ユウゲン劇団の確固たる収入の地盤を作った。 全米各地への劇団公演に加えて、土居は、サンフランシスコ州立大学日本語&日本文学科、演劇科をはじめとして、カリフォルニア・オークランド市のミルス大学、メリーランド州バルチモアのガウチャー大学、コロラドスプリングのコロラド大学で能・狂言の実技を含む日本演劇の教鞭をとった。 また、ニューヨークのジャパンソサエテイー、デュークエリントンパフォーミングアート校をはじめとして、シアトル大学、アラスカ州立大学など全米各地14州にわたって、能・狂言に関するレクチャー・デモンストレーション、ワークショップに、招待され、講演した。

土居はこれまで英語狂言を含む50以上の作品を演出してきたが、特に1990年9月に、劇団ユウゲンが、能スペースという小劇場をサンフランシスコに開設以来、ツアーに代わって劇場活動に専念した。 多田富雄作新作能「無明の井」、大田省吾作「小町風伝」、寺山修二作「犬神」など日本戯曲の他に、ギリシャ悲劇「アンテイゴネー」、「メディア」、ベケット「ゴドーを待ちながら」、イエーツ「煉獄」などを演出。土居の得意とするヒユージョンの作品は、ディキンスの翻案作「能クリスマス・キャロル」、キャロル ソーゲンフライ作「血のワイン、血の婚礼」(近松門左衛門歌舞伎とフラメンコの融合)、エリックエン作「クレージー・ホース」、「ラコタの月」(能とアメリカ先住民文化の融合)等がある。「小町風伝」では、99歳の老婆役を主演した。 また1990年代には、パロアルトにある劇団シアター・ワークスでの演出も頼まれ、ベリナ ヒューストン作「茶」の演出で、シアター・ワーク劇団の記録を破る観客数で公演は2週間追加公演された。その後ブロードウェイ・ミュージカル「太平洋序曲」の振り付けにかかわり、このショーで、振り付け賞を取得。この縁で、2003年「太平洋序曲」のオハイオ州シンシナテイーのシンシナティー・プレイハウス・インザパークの公演に振り付け兼アジアコンサルタントとして参加。その後、アトランタでの公演, サンデイエゴのオールドグローブ座での公演にも参加した。 2001年9・11のWorld Trade Towerの大惨事の三日後のサンフランシスコ・ジャパンタウン五重塔広場で、奇しくもクレージー・ホースを主人公に平和をテーマに演出した「ラコタの月」を無料で野外公演した。この公演は広場いっぱいに埋まった観客のスタンデイング・オーベーションで終わり、感極まった観客は、風の強い寒さにもめげず公演後何人もの観客が土居の手を握り、男女や人種を問わず涙ながらに感謝の気持ちを表す感動的な場となり、土居が40年にわたる演劇活動から手をひくきっかけとなった。

2001年9月末芸術監督を辞退して以来、劇団の芸術顧問として、後進の指導にあたる一方、フリーで、演出、出演。宝生能楽堂で人間国宝野村万作師の謡で、小舞「鶉舞」を舞った他、シアタ・オブ・ユウゲンの「1000」の共同演出、振付、出演、ボルテーユ作「カンディード」の老女役、ダンディライオン・ダンス・シアターの「マット」、映画「ナンバー4」などに出演した。 2005年愛知万博からの招聘で、「ラコタの月」を500席満席のメイン・ホールで上演し、アメリカ大使館、カナダ大使館の後援で、レクチャー&デモンストレーションも催した。 アメリカ先住民のことを知らない多くの日本人の観客から大きな反応があって再度の上演の折には、必ず知らせてほしいという要請が多くあった。その後、東京の両国、シアターカイの劇場で5回公演し、朝日新聞をはじめ、サンケイ新聞などの劇評をいただいて好評裡に幕を閉じた。この時の公演の様子が、やまざき十三作、北見けんいち画「釣りバカ日誌」(ビッグコミックオリジナル2006年17号)に掲載された。 帰米後引き続き、東海岸メイン州をはじめ、ロスアンジェルスにわたる全米公演を無事終えた。

2012年9月には、サンフランシスコのODC劇場で音楽、踊り、映像、アニメーション、語りから成るマルテイ・パフォーマンス・プロダクション、土居草案、ジョーン・オキーフ作「ミステイカル アビス」(神秘の深淵)を演出。2015年9月には、この「ミステイカル アビス」(神秘の深淵)をもって、コロラド州デンバーのクレオ・パーカー・ダンスシアターで公演し、また、コロラド・スプリングのコロラド大学やコロラド州立大学でも公演の一部を上演するとともにレクチャー・デモンストレーションを催した。 このコロラドツアー公演を最後に、土居は、劇団の理事として、劇団に関与しながらも、一線から退き、日本にしばらく滞在し、2013年12月8日には、東京渋谷のセルリアンタワー能楽堂で、石田幸雄師の遊兎の会で狂言の大曲「川上」を演じた。その後も基本的な狂言の動き、小舞い、小謡、をシアターオブユウゲンで、指導し、新しい英語狂言を演出。2018年には、新たにカリフォルニア伝統芸術同盟(Alliance California Traditional Arts)から助成金を得て、シアター・オブ・ユウゲンの現芸術監督の指導に当たった。20192月に催されたユウゲン会の狂言公演、「節分」の演出を最後に完全に劇団からリタイヤーした。
土居は、また長年のヨットクルーザー乗りで、1973年4月メキシコ・アカプルコからニュージーランドまでの航海記は、舵社の雑誌「The Kaji」に掲載され、大好評の結果、舵社の海洋文庫5「タアロア号南太平洋をゆく」(上下)2巻に発行された。その後、2010年にも、37年ぶりにほぼ同じコースを、航海し、気象状況をはじめとして、海上、陸上の状況の変化に脅威の思いを感じた。かっては、台風雨圏外にあった、ツアモツ諸島が、大風雨に見舞われ、ほとんどの家が崩壊したが、幸いツアモツ諸島アへ島は、今やブラック・パールの主な生産地として、経済的に豊かな島になっていた。昔親しくした友人はまだ健在で、私の顔を見ると即座に、「タアロア」と我々のヨットの名前を呼んで、私の名前も覚えてくれていた。もう70歳を越して老いた島の友人は早速、孫の家に連絡を取り、今や村で一番の成功者の真珠養殖場の家に行った。その孫息子は、おじいさんがお世話になった方だから、大切にしなくてはいけない、ということで、目の前に山ほどの真珠の球を見せて、お土産にいくつでもいいのを取ってください、ということだった。何か昔の日本を思い出させるような親子の関係がそこにはあり温かい気持ちになって帰路に就いた。環礁の中の海水は、昔のように澄んではいず、白く濁っていたが、島人の心は変わらず清んでいるように思えた。2011年の南太平洋への航海も月刊誌「 Kai」の2011年5月号より10月号に「思い出の南太平洋再訪」として36年ぶりの航海の実現が掲載された。